- INDEXへ
- 名古屋城初開門式1月
- 名古屋中国春節祭1月
- 国府宮はだか祭2月初旬
- 尾張徳川家の雛祭り2月下旬~
- 名古屋東照宮祭4月
- 長篠合戦のぼりまつり5月初旬
- ナゴヤ エキトピアまつり5月初旬
- 名古屋城古武道大会5月初旬
- 堀川フェステイバル5月
- 石取まつり(名古屋市)5月下旬
- 堀川まつり6月上旬
- 桶狭間古戦場まつり6月初旬
- 設楽原決戦場まつり7月初旬
- 西尾まつり7月中旬
- 刈谷万燈祭7月下旬
- 名古屋みなと祭花火大会
- 豊浜 鯛まつり7月下旬
- 一宮七夕まつり7月下旬
- 尾張津島天王祭7月下旬
- 須成祭(蟹江町)8月初旬
- 岡崎観光夏まつり花火大会8月初旬
- 日本ライン花火大会8月中旬
- 火おんどり8月中旬
- 三好大提灯まつり8月下旬
- 三河一色 大提灯まつり8月下旬
- せともの祭り9月
- 炎の祭典9月中旬
- 名古屋まつり10月中旬
- 大須大道町人祭10月中旬
- 椿 フェスタ10月下旬
- 長久手警固祭不定期秋
- 秋葉大祭火渡り神事12月
- 名古屋の大晦日と新年
江戸時代から戦前まで名古屋まつりと言えば東照宮祭であった。名古屋の三大祭りの筆頭として 名古屋市民に親しまれたこの祭りも、戦災によって山車が焼失、現在は神事以外に舞楽が行われる だけになっている。今回は名古屋東照宮の児玉健治宮司に東照宮と東照宮祭の変遷をお聞きしています。
-インタビューの内容を要約して記事にしています-
名古屋東照宮は、名古屋城の初代城主徳川義直公が父家康の霊を弔うため1619年名古屋城の三之丸に創建されました。明治維新になり名古屋城三之丸に陸軍の司令部が置かれることとなり、明治9年(1876)に尾張藩の藩校、明倫堂の跡地に西に隣接する三之丸天王社(現在:那古野神社)とともに移転されました。第二次世界大戦末期の空襲で名古屋城一帯は火の海となり、国宝に指定されていた楼門、社殿とともに焼失しました。戦後の昭和28年(1953)に尾張徳川家に関係のある建物を探していたところ、尾張徳川家初代藩主義直公の御正室 春姫(高原院)様の御霊廟が建中寺にあり譲り受けて名古屋東照宮の社殿としました。
家康公が亡くなられたのが1616年4月17日、この日を命日としまして毎年4月の16日に試楽祭として舞楽を奉納しました。翌日の17日には神輿を先頭に山車の行列がおこなわれました。最初に山車を作ったのは下七間町の橋弁慶車。その後、祭りを奨励した徳川宗春公治世の1733年に、最後山車9輌目の林和靖車が揃い東照宮祭(名古屋まつり)の山車がすべて揃うことになりました。そのころが一番隆盛をきわめたと聞いています。行列は名古屋城内の三之丸から本町通を南下して若宮神社に隣接する東照宮御旅所まで続きます。
400年近く続いた神事以外の舞楽に、今回(2015年)初めて私も参加し舞楽を舞うことになりました。これは貴重な体験であり、また永々とこれを続けていかなくてはならない使命感を感じました。
地図
写真
舞楽演目(2015年)
振鉾(えんぶ)
舞楽の最初にはまず振鉾を舞うのが恒例となっている。
甘州(かんしゅう)
古代中国の甘州付近の風俗舞踏の断片が伝えられたといわれる農作業を表す動作を主題とした舞。
登天楽(とうてんらく)
右方舞楽(高麗楽)の小品、由来は不明な点が多いがもと童舞との説もある。
春庭花(しゅんていか)
舞楽のスタンダードナンバーとして知られた舞楽。双調(日本音楽の十二律の一)に属する曲のうち 現行のものとしては唯一の舞楽である。
狛桙(こまぼこ)
昔、高麗の国から来貢するとき五色にいろどった棹で船をあやつって港に入った様子を模したものと伝えられる。
陵王(りょうおう)
左方(唐)走物(はしりもの)の代表的なもの。中国 北斉の国 蘭陵王長恭が戦場でその美貌を隠すため おそろしげな仮面を着けて戦いに望んだという故事に由来したと言われる。
落蹲(らくそん)
右方(高麗)走物(はしりもの)の代表的なもの二人舞の納曽利(なそり)をひとりで舞うときの呼称。 竜が遊びたわむれている様子をうつしたものといわれる。
長慶子(ちょうげいし)
舞楽の最終の曲として演奏される。